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仏教もしくはインドの思想では、カルマと呼ぶが、
人は、他のものと連動してしまっているがゆえに、
他のものと切り離せなくなっており、
他で起こったことの影響が、良くも悪くも
モロに自分にふりかかってくることが、しばしば起こる。
人間は、自分が直接原因を引き起こしたのでなければ、
自分のせいではない、と切りすてようとすることも多いが、
魂というレベルでは、全て、大いなるものの一部であり、
人の尻拭いをしているようでいて、その実、
時間も空間も越えた概念での「自分」、のために
やるべきことを行わされているだけなのである。
そもそも、「自分」とは、個体ではなく、
生きとしいけるもの、つまり、この世界そのものであり、
その意味では、「宇宙」や「エネルギーの総体」と
言ってもよく、「小宇宙」に対する「大宇宙」ともいえる。
インド思想においては、「小宇宙(個)」=「大宇宙」
の概念を「梵我一如」と言う。
密教ではさらに「即身成仏」「入我我入」「三密加持」と言い、
宇宙(生命)エネルギーと同化「成仏」し、その結果、
宇宙(全体)より、力を引き出して、利用することができる。
これはつまり、カルマのウェブネットワークの中にありながら、
全体を管理しているようなものであり、
その心をカルマに束縛されることなく、自在にネットワークの
中のあらゆる力を用いることができる、ということである。
ちなみに仏教において心を知るには「空」と「識」の概念があり、
「識」つまり「意識」には、「意識」と「無意識」があり、
「意識」も「無意識」も、ともにカルマの束縛より解脱した結果、
全体を眺めることができるようになる。
ところが、カルマの束縛より脱却することが、どれほど難しいか・・・。
言うのは簡単だが、実際にそれができれば仏陀(覚者)である。
つまり、それほどに、人間の「思い込み(妄執)」は激しいのであり、
それが、自分の心と行動を強く束縛している。
だから、自身の思い込みを一つ一つ見て、知り、取り除いていく
という作業が必要になる。
人間関係のトラブルも、結局のところ、そこに答えがある。
そこに本当にそういう色のものがあるのではなく、
自分の色眼鏡で、物を見て勝手に判断しているだけなのだ。
事実そのものは無色であり、何の色もない。
幸不幸、善悪を自分の乏しい経験で勝手に決め付けて、
勝手に思い込んで、苦しんでいるのが、哀れでならない。
自分自身も、そこに気づいてはいても、
まだまだそれを克服しきれていない哀れな人間である。
「道理や真理は、他に求めるべきではない。
己の心の中にそれを見、それを聴き、それを念じよ。」
というような空海の言葉があるが、まさにその通りだと思う。
カルマは、金剛界曼荼羅の示す根本思想であるが、
五大(六大)をあらわす胎蔵曼荼羅と一対のものとして
「金胎不二」としたところに、空海の思想の完成がよく見える。
さて、空海のことはさておき、
このカルマと、自分自身の思い込みからの脱却、というテーマが、
現在の自分の、人生における主要テーマになってきている。
水の性質を強く持つと、他人の影響をモロに受ける。
この自分を本当に守るのは、固い甲羅などではなく、
むしろ、自分自身の束縛から自由になることだと
強く思うこのごろである。
文殊の利剣な諸戯を絶つ
文殊菩薩の知恵の刀は、言葉による煩悩(幻)を絶つ。
言葉による煩悩=諸戯(しょけ)。
戯・・・たわむれ、戯曲(芝居)
言葉とは、たしかに、そういうものかもしれない。
さとったら、きっと「悟り」なんてどうでもよくなる。
悟りにいたるプロセスにおいて、人は多くのものを学び、
能力を開花させ、自分の無限の可能性に出会う。
しかし、それは、本当に大切なことではない。
ほんとは見えているのに見えてなかったものを見て、
ほんとは聞こえているのに聞こえてなかったものを聞く。
悟りへのプロセスとは、魂をその監獄から解放する作業。
魂は自然の中に還り、混ざり合い、そして、
こんどは自分の意思であるべき場所に落ち着く。
あるべきすがたで。
その時に起こるのは、喜び。
大地の底からわきあがってくる喜び、
天の上から舞い降りてくる喜び、
鳥の気持ち、虫の気持ち、葉っぱの気持ち。
すべてと一体化し、全てが自分と共に生きてくれる。
こうしてすべてがオーケストラのように流れていく。
そして、「悟り」など本当にどうでもよくなる。
結局の所は苦しみも悲しみも、無くなりはしないし、
自分の欲がなくなるわけでもない。
悟れば、聖人君子のような理想的な人間になれるわけではない。
悟りとは、自分自身のリズムと出会うこと。
自分の本当のリズムは、無意識の中にある。
そう万物の中に内在するリズムと同じなのだ。
自分がこの自然のビートとシンクロし、競演する。
この上ない幸せ。
生き物としての本当のリズム。
悟りなど、本当はけして難しいものではないのだ。
それは、本当はたった一言で表せるもの。
しかし同時に、千の言葉をもってしても表せないもの。
すべては、そこにあり、誰もがその中にいる。
つまり、般若経というお経ののダイジェスト版。
般若経は、膨大な量の経典である。
般若心経はそのエッセンス。
さて、般若心経は、「空」を説くお経である。
それはつまり、般若経が「空」を説くお経だからである。
というわけで、今日は、般若心経の書き下し文。
仏の説きたまえる摩訶(まか)般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)心経
1、観自在菩薩、深い般若波羅蜜多を行じた時、五蘊(ごうん)は皆
空(くう)なり、と照見(しょうけん)して、一切の苦厄を度(ど)す。
2、①舎利子(しゃりし)よ、色(しき)は空に異ならず、空は色に異ならない。
色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。
受、想、行、識とも亦復(またまた)是(かく)の如し。
②舎利子よ、是の諸法は、空を相とし、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増えず、減らない。
③是の故に、空の中には色も無く、 受・想・行・識も無く、
眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、 色・声・香・味・触・法も無く、
眼界も無く、 乃至(あるいは)意識界も無く、
④無明(むみょう)も無く、 亦(また)無明の尽きることも無く、
乃至(あるいは)老・死も無く、 亦(また)老・死の尽きることも無く、
⑤苦・集・滅・道も無く、智も無く、亦(また)得も無し、 所得無きをもっての故(ゆえ)なり。
3、菩提薩埵(ぼだいさった)は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けげ)無し。
罣礙(けげ)無きが故に、恐怖(くふ)有ること無く、
一切の顚倒(てんどう)夢想を遠離(おんり)して、涅槃(ねはん)を苦境す。
三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、
阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を得られた。
4、故に知る。般若波羅蜜多は是れ大神呪(だいしんしゅ)なり、
是れ大明(だいみょう)呪なり、是れ無上呪なり、 是れ無等等(むとうどう)呪なり。
能く一切の苦厄を除く。真実にして、虚しからざるが故なり。
5、般若波羅蜜多を説く呪あり。即ち呪を説いて曰く。
掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらそうぎゃてい、 ぼーじ、 そわか) <漢字の音読>
(ガテー、 ガテー、 パーラサムガテー、ボーディ、スワーハ-)<サンスクリット語>
般若心経
といった感じのお経。
細かい専門用語はとりあえず置いといて、
少し、おおまかな流れが見えてみたかもしれない。
般若波羅蜜多とは、仏の智慧を表し、
「大いなる仏の智慧のお経」が大般若経なのだ。
そしてその智慧で悟った事は、「空くう」。
「空」とは「実体が無い」ということを示す概念である。。
人間がたとえ100年生きようが、宇宙から見れば、はかない存在にすぎない。
全ての存在には実体が無く、 「実体が無い」のが、全ての存在の本質である。
という風に、観自在菩薩(観音さん)が、仏の智慧により、
「空」を悟った、というお話が、このお経のストーリー。
そして最後におまじないの言葉(呪)を説いている。
つまり、「南無阿弥陀仏」みたいな感じの真言(しんごん)だ。
これは呪(魔法の言葉)なので、内容はあまり重要ではない。
音が大事なのである。
これは、つまり、観自在菩薩が、「ガテーガテー・・・・」と
唱えつつヨガというか瞑想(修行)しているうちに、
あ、そうか、すべては「空」なんだ、と気づいたという話である。
いまの時代で言えば、
大哲学者が、悩み抜いた末、ぽーにょーぽーにょ、と口ずさんでいたら、
ひらめいた!的な話かもしれない。
まあ、実際はもっと深いレベルの話なんだけど・・・。
呪(真言)に関しては、空海の言葉を引用すると、
ものすごく深い話になるけど、それはまたの機会に。
まあ、魔法の言葉の言語学、みたいな。
般若心経ももっと細かく読み込んでいくと、結構面白いので、
また機会があれば書くつもり。
ってなわけで、このへんで。
以我功徳力(いがくどくりき)
如来加持力(にょらいかじりき)
及以法界力(ぎゅういほうかいりき)
普供養而住(ふくようにじゅう)
というものだ。
直訳すると、
我が功徳力
仏の加持力
及び、法界力をもって
あまねく供養し、とどまらせることができる。
となる。
つづけて、もう少し噛み砕く。
我が功徳力とは、自分から外に出す力。
如来の加持力とは、外から自分に入ってくる力。
法界力とは、場所や、環境、条件、の力。
例えて言うなら、スポーツ選手。
選手自身の強い上達への意志と行動力。
いいコーチや先生の助け。
それを実践できる、練習場所、設備、練習相手、経済的、時間的条件など。
この3つがそろえば、物事は成就する、という教えである。。
気合だけ入ってても、いい先生がいなければ、ひとりよがりで、非効率な練習になる。
いい先生がいても、本人にやる気がなければ、上手くはならない。
気合もあるし、先生もいるけど、練習場所や練習時間が全然ない、では、難しい。
だから、何かを成し遂げたければ、この三つの力が集まる事が必要になる。
そうすれば、
普(あまね)く供養し、とどめることができるのである。
ちなみに、「供養」とは、よどみなく循環する、動き出す、という言葉である。
例えば、
体の中の血液が、脂肪やコレステロールにより、どろどろになり、詰まると病気になる。
逆に、さらさらで、しっかりと流れていると、血行がよくなり、健康になる。
物事が、よどみなく流れ流れて、変化し続けていく、のが供養という言葉であり、
そして、「住」というのは、
その順調な状態を保つという意味の言葉である。
3つの力により、物事の停滞を打破し、動き出すことができるのである。
しかし、この事を見つめていると、
ある事に気づかされる。
他の人の助けや縁がなければ、
自分だけではどうにもならない、ということを。
縁とは、自分の都合に合わせてやってくるものではなく、
本来、得がたい、有難い(ありがたい)ものだ。
自分から行動を起こした事を、
他の人に助けてもらい、
ご縁にもめぐまれる。
本当にありがたい、と、昔の人は思ったかもしれない。
いや、個人的にはめちゃくちゃありがたい、と思えるのだ。
三力偈、なかなかに奥が深い。
いろいろお経や思想があるが、
奈良時代までの日本の仏教やお寺は、
あくまで思想や哲学の研究機関のようなもんだった。
「戒律」(お坊さんの決まり)だとか、
「空(くう)」の思想だとか、
「八識(はっしき)」(人間の深層心理を8つの段階に分けたもの)だとか、
「華厳(けごん)」だとか、、。
この中で、お坊さんは、いろんな所にいって、それぞれにいろいろ勉強していた。
つまり、宗派のちがいは、大学の専攻科目の違いみたいなもんだったわけだ。
それが、最澄と空海の登場により、大きく変わる事になる。
それが平安仏教。
さて、この平安仏教は、何か?というと、
奈良仏教は、ごく一部の人だけが学ぶ「学問」であったが、
そこに大乗仏教という仏教の新しい流れを取り入れた、ということなのだ。
それまでにも、お経や思想的には、大乗仏教は日本に伝えられてはいた。
でも、例えば「戒律(きまり)」は、小乗仏教のこまごまとしたものであったし、
いろいろと古い体質をひきずっていたのだ。
そこで、最澄というお坊さんは、天台宗という、中国に昔からある宗を
輸入しようとした。
そして、大乗仏教としてのお坊さんを育成する事を目指したわけだ。
それが、ちょうど平安京に遷都したころで、都が奈良から京都に移ったころだった。
都が移るということは、時代の変わり目であり、人々は、当然、新しいものを欲した。
そこに合致した最澄の志は、国や帝(桓武天皇)に支えられ、中国に留学することとなる。
そして、中国から、天台宗を学び持ってかえってきた、というわけだ。
ここらで少し天台宗の話をするが、最澄の天台宗は、
「法華経」を基盤にして、「禅」「戒律(大乗)」「念仏」「密教」の四宗兼学だった。
最澄が目指したのは、大乗仏教の総合大学のようなものであったようだ。
これを、一つ一つ鎌倉仏教に絡めて、みていくことにする、
まず「法華経」
法華経は、仏教の中の「一神教」的思想である。
彼らは、
お釈迦さんがその生涯の中で、多くの教えを説いたが、
「法華経」はその中でも、最後に説かれた、もっとも大切な教えである、
とする。
その他の教えは全て、「法華経」の教えを説くための方便であり、
「法華経」だけが、その仏の教えの中で、唯一絶対最高のものなのだ。
と考える。
ただし、きっちり述べておかねばならないことがある。
まず、多くのお経は「仏説(お釈迦さんが説いた)」とされるが、
ほとんどが、後世のインドのお坊さん達が考えたものである。
「法華経」も釈尊入滅後500年後の成立であり、
500年も立ってから、いや実は「法華経」が唯一絶対だ、
釈尊がそう言ったんだ、と言われても、
それはむちゃな話である。
また、この教えとその集団の危険性として、
一神教というのは、イスラム、キリスト、ユダヤを見てもわかるが、
自分のとこの教えが絶対で、他の教えはすべて邪教、となりやすくなる。
唯一絶対の神(教え)は一人(ひとつ)しか居ない、という理屈上、一神教の理屈では、
異教徒はすべて改宗をせまるべき対象になってしまうのである。
後に、鎌倉期に、日蓮上人が、天台宗から出て、法華経をさらに追求し、
日蓮宗を立てた時、彼は他の宗派を、激しく攻撃した。
あの教えは国を滅ぼす、とか、この教えは、悪魔の教えだ、とか・・・
こういう他者の完全否定は、法華経集団の発生以来の、好ましくない伝統である。
鎌倉期には、他の宗派も腐敗しており、
彼の批判も、確かに、仕方のない面もある。
(今の官僚や政治家みたいに。)
しかし、これは、他宗の腐敗した「人間」や「組織」を責めるべきであり、
その「教え」を邪教と責めるのは、お門違いである。
さて、こんな法華経系のグループ。こういう一神教系の教えはどこでもそうだが、
信者を爆発的に集める傾向がある。
なぜか?
分かりやすいからである。
「唯一絶対、最高最強!」
ね?わかりやすいでしょ?
とまあ、こんな感じの法華経系宗派。
「必ず救われます。とりあえず信じなさい」的な感じがぷんぷん。。
現代で一番有名なのは、日蓮宗と創価学会。
この二つはもともと同じ物。
創価学会は、「お金」でもめて、日蓮宗から出てきたグループ。
まあ、「人」と「カネ」があつまるところ、いろいろあります。
で、法華経集団の特徴をのべたが、
「法華経」のお経自体はどうなんだ?となると、
はい。法華経は、別に日蓮宗の専売特許ではなく、
奈良仏教や、平安仏教では、学ぶべき価値のあるお経の一つであり、
法華経の内容、実はすばらしい。
ある意味、天台宗は、法華経を大事にしつつ、他も学ぶと言う点で、
上手にバランスを取ってるなあ、と思うのだが、
そのせいで、後の純法華経系のグループには、嫌われただとか、、。
・・・で、次ぎは「禅」。
禅は、インドの言葉で、「ヨガ」であり、心と体をしっかりとコントロールし、
その可能性をひきだし、上手に使う、というものである。
その手法として、体操があったり、瞑想があったりする。
座禅というのも、つまり、「座るヨガ」ということである。
これはインドではごく当たり前の修行法であり、
別に禅宗さんの専売特許ではない。
どこの宗派でも、アタリマエにやっているものである。
これを鎌倉期に、天台宗から、栄西と道元というお坊さんがでて、
「禅」に注目し、「座禅」というメソッドで追求するという宗派を作った。
栄西禅師の臨済禅では、「公案」というような、ナゾナゾのようなものをやったりもするが。
道元禅師の曹洞禅では、「ひたすら座る」という方法を用いる。
日本文化においては、武士道や茶道の精神のもととなった。
いさぎよさ、強い精神力、道・・・
いろんな意味において、「禅」の境地は、日本の精神文化として影響を残していくこととなった。
・・・で、次ぎは、「戒律」
戒律は、お坊さんのルール。
ようするに、現代でいうと、「道徳や法律」の勉強みたいなもんかな。
生き物をむやみに殺してはいけない。
盗んではいけない。
ウソをついてはいけない。
・・・
ってな感じ。
小乗仏教の戒律は、かなりめんどくさくて、
ものすごい数の細かい戒律がある。
こまごまとした戒律をまもる事にやたら目くじらをたてた事を踏まえて、
大乗仏教の戒律は、ゆるいものになっている。
なぜなら、ルールというのは、
それを制定した時代には、必要であったとしても、
時代が変われば、必要なくなる、だけでなく、かえって害となることさえあるからである。
不殺生を守るために、食べ物は木の実だけ、
植物も、虫も踏んではいけない、とか・・・ちょっときびしすぎる。。。
・・・で、次ぎは「念仏」
あの南無阿弥陀仏!ナムナムってやつだ。
これは、仏さんに全てをお任せします!
という意味の、おいのりの言葉
これは後に、浄土宗、浄土真宗をひらいた法然上人、親鸞上人が、専門にした。
天台宗から独立し、念仏と「極楽浄土」の思想を深めていったのがこの宗派。
これも、民衆にわかりやすいように、非常に簡単に述べてある。
ただし、宗祖達の理論は、非常に深いものであるので、
本当は、見た目ほど簡単なものではない。
「極楽浄土はいずこにあるか?」
ー「あなたの心の内にある」
「念仏を唱えさえすれば、必ず極楽にいけるのか?」
ー「私は知らない。しかし、この念仏の教えを信じて、地獄に落ちても、私は後悔しない。」
・・・どうだろう?
本来、浄土系の教えに従うにも、強い精神力が必要なのだ。
・・・で、最後に「密教」
密教は、かなり趣が異なる。
また、空海抜きには語れない。
これはまた次回。ということで。
とりあえず、今日の結論は、
鎌倉仏教の祖師は、天台宗という「総合大学」から出てきて、
個々の手法を深めて、専門の「単科大学」を作ったというような感じ、で理解してみてはどうだろうか。
さて、前の続き的なお話。
仏教にはいろんな「宗派」があるけど、
そもそも宗派って何?って疑問を解明せねばなるまい。
宗派の違い。。。
同じ仏教なのに、ものすごーく違うのは何故っ?ってとこだけど、
宗派の一番の違いは、どのお経を重要視してるか?って点になる。
難しく言うと、根本経典とそこに説かれる思想や解釈の違い。
じゃあ、お経って、なんだ?
という話になると、話がちょっと長くなる。
ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さん)という、あるインドの人が、仏教を
説いたことから、仏教の歴史は幕をあける。
一口に「仏教」っていうけど、実は仏教っていうのは、ほんとにいろんな要素を含んでる。
普通は「宗教だろ?」って思うだろうけど、
じゃあ、「宗教」って何だ?となると、答えられないんじゃないかな。
ということで、宗教の中身を説明すると、
思想、哲学、信仰、文化、儀式、先祖供養、、、、等など、から構成される。
まあ、普通の人は、「宗教」という言葉に「信仰」「先祖供養」のイメージが強いんじゃないかな。
でも、本来のお釈迦さんの説いた仏教というのは、「思想」や「生活の智慧」的なものだった。
「人が生きていく」って事を突き詰めて考えた「自然の法則」といえる。
で、彼はいろんな人にアドバイスして歩いたんだけど、
その入滅後、弟子達は、お釈迦さんの言葉を、残しておきたいと考えた。
これがいわゆる「仏典結集」ってやつで、
こうやって、「お経」が作られた。
多くは「仏説・・・(お釈迦さんがこう言った・・・)」で始まるのはこのためだ。
要するに初期のお経の内容というのは、私はお釈迦さんにこう言われました、という
釈尊名言集のようなものなのだ。
でも、集めてみるとその内容は矛盾だらけだった。
例えば、
体重100キロくらいある人は
「私は、釈尊から、あまり食べ過ぎないように、と聞きました」と言えば、
ガリガリのやせ細った人は、
「いや、釈尊は私に、もっと食べなさい、とおっしゃった」と言う。
コレがお経の中の、「如是我聞 (かくの如く、我は聞けり)」という文句の正体。
じゃあ、いったい、どっちが正しいんだ?と議論になる弟子達。。。
結論からいうと、お釈迦さんというのは相手を見てアドバイスしていたということだ。
それを対機説法という。
まあ、とりあえずは、
こんな感じで、お経づくりが進んでいった。
ところが、釈尊入滅後、数百年もたつと、教団はどこか腐敗してくる。
わけのわからん大昔の決まりや伝統がうっとおしくなってくる。
まあ、いつの時代も、長い時間が立てば、そうなっていくのは当然。
というわけで、それに対する反対勢力が生まれる。
そして、反対勢力は、原点回帰をめざして独立し、
自分達なりに、釈尊の教えを解釈しなおし、経典をつくる。
こうしてまた新しい「教え」と「経典」が生まれる。
彼らは古い勢力を小乗仏教と名づけ、
自分だけが悟りを開くこと、にこだわってしまった人達と批判する。
で、新しい動きを起こした人達は、自らを大乗仏教と名づけ、
みんなを救うことが、釈尊の意思だ!と、した。
ってな感じで、お釈迦さん入滅後、何百年も経つつうちに、
どんどんいろんな思想や哲学が生まれ、仏教を豊かにしていく。
建前上は、全てお釈迦さんが説いた、とされてね。
こんな風にして、いろんなお経が生まれていった。
多分、お経は、西暦1200年くらいにインドで仏教が滅ぶまで作られつづけたんじゃないかな。
いろいろあるお経、つまりいろんな思想や哲学。
その中で、ウチではこれが一番大事だ!(正しい!)とか主張してるのが、
「宗派の違い」なわけだ。
一応ざっくりまとめてみると、
1、奈良仏教(宗派というより、哲学的な学派)
法相宗:「唯識」・・インドで4世紀ごろ「唯識派」が現れる。(もとは空の思想から発展)
三論宗:『中論』・・・インドで「中観派」が考えた「般若経」の「空」の思想
華厳宗:「華厳経(3世紀頃成立)」
律宗・・・戒律
倶舎宗・・・小乗仏教系?
成実宗・・・?
2、平安仏教
天台宗:「法華経」を基盤とした「禅」「戒律」「念仏」「密教」の4宗兼学。
天台宗は、中国では、法相宗や華厳宗よりも古い宗派。
真言宗:「密教」
3、鎌倉仏教
浄土宗:「浄土経」「念仏」
浄土真宗:「浄土経」「念仏」
臨済宗:「禅」
曹洞宗:「禅」
日蓮宗:「法華経」・・・法華経の成立は、釈尊入滅後、約500年後のBC150~BC50年頃とされている。
というような感じである。
むずかしいのお。
長くなってきたので、それぞれの内容はまた今度書くことにする。
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管理人はもぐらです。
もぐらは動物と植物と環境の友情を考えています。
別に環境保護にも、動物愛護にも興味はありませんが、人間中心の発想にも興味はありません。
もぐらの一生は、自分の仕事をまっとうすること。
そして自分の心より宝物を発掘すること。
この世界は完璧でないがゆえに美しいのだ、
そう思って生きています。