このブログは、管理人が、気の向くままに、酔っ払いのように好きな事を書くブログです。
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今までいつも、他人はその答えを知ってる気がしてた。
でも、本当は、誰も答えなんて知ってはいない。
他人だって、答えを探している途中だったり、
答えを探すことをもうあきらめていたり、
知ってるつもりになっているだけだったり、
そこから目を背けて生きているだけだった。
だから、誰に聞いても、まともな返事なんて返ってはこない。
でも、彼らは表現する言葉を知らないだけで、
本当は知っているような気がしてた。
他人に答えを求める自分、っていうのは、
学校教育や育った環境における負の影響なのだ。
こういう幼いころの初期設定のミスは、
泥沼にはまり込むには十分な選択ミスの一つだろう。
人はみな、何かしらそういう致命的な初期設定のミスを多く抱え、
日々苦しんでいるが、それは、幻の迷宮のようなものだ。
出口のない迷宮にいる気分。
本当は迷宮でもなんでもないのに。
要するに、そこを迷宮だと思い込んでいることそのものが、
間違っていたのだ、ということに。
話を戻すと、他人はみんな正しい答えなんかもっちゃいない。
どんなに自信満々に見える人間だって、
どんなに地位や権力をもっていたって。
彼らは、自分の答えを信じているだけだ。
(自分は間違ってないと信じたいだけかもしれないが。)
でもまあ、それでいいのだ。
ただね、他人と違う答えが許されないという思い込みも、
もうそろそろ修正しとかないといけない。
誰かに答えを求めるのではなく、
自分で自分の見つけた答えを信じる事で充分だったんだ。
こんなことに気付くのに、30年近くもかかってしまった。
でも、本当は、誰も答えなんて知ってはいない。
他人だって、答えを探している途中だったり、
答えを探すことをもうあきらめていたり、
知ってるつもりになっているだけだったり、
そこから目を背けて生きているだけだった。
だから、誰に聞いても、まともな返事なんて返ってはこない。
でも、彼らは表現する言葉を知らないだけで、
本当は知っているような気がしてた。
他人に答えを求める自分、っていうのは、
学校教育や育った環境における負の影響なのだ。
こういう幼いころの初期設定のミスは、
泥沼にはまり込むには十分な選択ミスの一つだろう。
人はみな、何かしらそういう致命的な初期設定のミスを多く抱え、
日々苦しんでいるが、それは、幻の迷宮のようなものだ。
出口のない迷宮にいる気分。
本当は迷宮でもなんでもないのに。
要するに、そこを迷宮だと思い込んでいることそのものが、
間違っていたのだ、ということに。
話を戻すと、他人はみんな正しい答えなんかもっちゃいない。
どんなに自信満々に見える人間だって、
どんなに地位や権力をもっていたって。
彼らは、自分の答えを信じているだけだ。
(自分は間違ってないと信じたいだけかもしれないが。)
でもまあ、それでいいのだ。
ただね、他人と違う答えが許されないという思い込みも、
もうそろそろ修正しとかないといけない。
誰かに答えを求めるのではなく、
自分で自分の見つけた答えを信じる事で充分だったんだ。
こんなことに気付くのに、30年近くもかかってしまった。
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人は、人生の中で、何度も嵐に遭遇する。
いろんなことが、思い通りにいかず、心が暴れて、荒れ狂う。
孤独や、恐怖や、不安や、悲しみ、、、
いろんな苦しみがある。
例えば仏教でも四苦八苦という苦しみがあると説かれている。
生老病死の四苦と
愛別離苦・・・愛する者と離れなければならない苦しみ
求不得苦・・・求めるものが得られない苦しみ
怨憎会苦・・・嫌な者に会わなければならない苦しみ
五蘊盛苦・・・体と心が思うようにならない苦しみ
の四つを合わせて八苦という。
こういう苦しみを感じ、人はのたうちまわるが、
それもまた、人生の中では、起こるべくして起こっている。
人の心もまた天気と同じで、どんなに荒れ狂っていても、
いつまでもその状態であるわけではない。
嵐によってひっかきまわされた(動かされた)ものは、
いつか必ず、その落ち着くべきところへ落ち着くことになる。
そう。いつか必ず。
今、それがとても腑に落ちて感じられる。
だから、
「人生の中で起こることは、楽しいことも、つらいことも、
本当はすべて、自分の為に起こってくれているのだ」
というこの実感とともに生きていけますように。
と、願ってみたりする。
しんどいけど、つらいけど、
乗り越えられる試練しか与えられないのが人生らしい。
これからの日々も、そういう日々でありますように。
いろんなことが、思い通りにいかず、心が暴れて、荒れ狂う。
孤独や、恐怖や、不安や、悲しみ、、、
いろんな苦しみがある。
例えば仏教でも四苦八苦という苦しみがあると説かれている。
生老病死の四苦と
愛別離苦・・・愛する者と離れなければならない苦しみ
求不得苦・・・求めるものが得られない苦しみ
怨憎会苦・・・嫌な者に会わなければならない苦しみ
五蘊盛苦・・・体と心が思うようにならない苦しみ
の四つを合わせて八苦という。
こういう苦しみを感じ、人はのたうちまわるが、
それもまた、人生の中では、起こるべくして起こっている。
人の心もまた天気と同じで、どんなに荒れ狂っていても、
いつまでもその状態であるわけではない。
嵐によってひっかきまわされた(動かされた)ものは、
いつか必ず、その落ち着くべきところへ落ち着くことになる。
そう。いつか必ず。
今、それがとても腑に落ちて感じられる。
だから、
「人生の中で起こることは、楽しいことも、つらいことも、
本当はすべて、自分の為に起こってくれているのだ」
というこの実感とともに生きていけますように。
と、願ってみたりする。
しんどいけど、つらいけど、
乗り越えられる試練しか与えられないのが人生らしい。
これからの日々も、そういう日々でありますように。
昔は、風にあたるのが大好きだった。
高校生のころは、台風が来る日はわくわくしたものだ。
でも、今はちょっと違う。
それは、風の怖さを知ったからだと思う。
風の怖さっていうのは、ハリケーンや竜巻みたいな、
そういうのもあるけど、今自分が考えてるのはそれじゃない。
それは、人間が工業的に作った風。
例えば、エアコンや空調の風のこと。
水でも、工業的に作った一切の不純物を含まない水は
とても凶暴なんだとか。
それと同じで、塩もNaClだけを取り出したものは、なんかとてもキツイ。
風もたぶん同じだろう。
つまり、あるものを構成している主要素だけを純粋培養することで、
工業的に純粋な物質を作り出す、というのは、たぶん不自然なのだ。
人工的に冷却して作られた風は、体を不調にし、
人工的に作られた水は、溶けないものを溶かしこむ。
人は、純粋で、単純化したものを求めている。
でも、純粋で完全なものは、完璧なようでいて、
実はひどく不完全なものなのかもしれない。
自然界の中で、一つの物質だけが他から独立して存在すること。
それは、不自然であり、
量の多い少ないはあっても、混ざったり結合し合っている状態の方が、
実は、とても安定している自然な姿なのだと思う。
だから、今思うのは、自分は何か混ざったものが好きなのだということ。
自然の中のいろんなものが含まれた風
ミネラルがたっぷり含まれた水
水分を適度に含みつつも、適度に耕されて、空気を含んだ土
不完全燃焼と呼ばれるオレンジ色っぽいふつうの火(青い炎じゃなくて)
そして、自分という人間もまた、何かの混合物なのだという実感。
生き物や物質は、そうやって存在しているのだ。
高校生のころは、台風が来る日はわくわくしたものだ。
でも、今はちょっと違う。
それは、風の怖さを知ったからだと思う。
風の怖さっていうのは、ハリケーンや竜巻みたいな、
そういうのもあるけど、今自分が考えてるのはそれじゃない。
それは、人間が工業的に作った風。
例えば、エアコンや空調の風のこと。
水でも、工業的に作った一切の不純物を含まない水は
とても凶暴なんだとか。
それと同じで、塩もNaClだけを取り出したものは、なんかとてもキツイ。
風もたぶん同じだろう。
つまり、あるものを構成している主要素だけを純粋培養することで、
工業的に純粋な物質を作り出す、というのは、たぶん不自然なのだ。
人工的に冷却して作られた風は、体を不調にし、
人工的に作られた水は、溶けないものを溶かしこむ。
人は、純粋で、単純化したものを求めている。
でも、純粋で完全なものは、完璧なようでいて、
実はひどく不完全なものなのかもしれない。
自然界の中で、一つの物質だけが他から独立して存在すること。
それは、不自然であり、
量の多い少ないはあっても、混ざったり結合し合っている状態の方が、
実は、とても安定している自然な姿なのだと思う。
だから、今思うのは、自分は何か混ざったものが好きなのだということ。
自然の中のいろんなものが含まれた風
ミネラルがたっぷり含まれた水
水分を適度に含みつつも、適度に耕されて、空気を含んだ土
不完全燃焼と呼ばれるオレンジ色っぽいふつうの火(青い炎じゃなくて)
そして、自分という人間もまた、何かの混合物なのだという実感。
生き物や物質は、そうやって存在しているのだ。
人生では時々、日々の生活が同じことの繰り返しになり、
何かが淀んで、停滞し始める時がある。
物事は、淀みなく、動き続け、そして回り続けている事が大事だが、
それがある状態で動けなくなってしまうのだ
そういうとき、何かを動かさなくちゃいけない気分になる。
ギリギリまで我慢して一気にやるなら、それは破壊衝動ともいえなくもない。
もっと軽い話でいうと、日々の生活に沈殿してしまうのを
少しかき混ぜるために、ぶらり旅に出る、みたいな話だ。
いつもの景色を少し離れ、普段行かないところへ足を踏み出す。
それだけで、物事はいい方向へ動き出すことがある、ってことを
最近、よく経験している。
新鮮さや刺激というのも、本当はとでも大切な感覚なんだろうな。
何かが淀んで、停滞し始める時がある。
物事は、淀みなく、動き続け、そして回り続けている事が大事だが、
それがある状態で動けなくなってしまうのだ
そういうとき、何かを動かさなくちゃいけない気分になる。
ギリギリまで我慢して一気にやるなら、それは破壊衝動ともいえなくもない。
もっと軽い話でいうと、日々の生活に沈殿してしまうのを
少しかき混ぜるために、ぶらり旅に出る、みたいな話だ。
いつもの景色を少し離れ、普段行かないところへ足を踏み出す。
それだけで、物事はいい方向へ動き出すことがある、ってことを
最近、よく経験している。
新鮮さや刺激というのも、本当はとでも大切な感覚なんだろうな。
人は、自分のかけらをこの世界の中に探しているものらしい。
それは、他人やほかの生き物の中にも見つかるものだが、
それはたぶん、音や周波数みたいなもんだと思う。
自分と同じ周波数や親和性の高い周波数と出会えばハモる。
で、特定の別の周波数とであうと、不協和音を起こすような。
もちろん、自分の中にもいくつかの周波数があるから、
自分がたった一つの周波数しかもってないわけではない。
あと、ある人が言っていたのだけど、
本来、不協和音と呼ばれるものも、実は和音であって、
それは、二つ(以上)の音の関係の中に緊張感があるかないか、
の違いなんだとか。
強い緊張・・・。
これもまた、本当はとても深い意味のある現象なんだろうな。
それは、他人やほかの生き物の中にも見つかるものだが、
それはたぶん、音や周波数みたいなもんだと思う。
自分と同じ周波数や親和性の高い周波数と出会えばハモる。
で、特定の別の周波数とであうと、不協和音を起こすような。
もちろん、自分の中にもいくつかの周波数があるから、
自分がたった一つの周波数しかもってないわけではない。
あと、ある人が言っていたのだけど、
本来、不協和音と呼ばれるものも、実は和音であって、
それは、二つ(以上)の音の関係の中に緊張感があるかないか、
の違いなんだとか。
強い緊張・・・。
これもまた、本当はとても深い意味のある現象なんだろうな。
最近ようやくわかってきたことだが、仕事に慣れると時間の過ぎ方が異常に速くなる。
就職して最初の3か月~半年がうんざりするほど長いが、
1年過ぎて、2年目に入ると、さらさら~と時間が過ぎ去っていく。
たぶん、どの会社に就職しても、一番しんどいのは最初の1年くらいで、
そこさえ過ぎれば、よほどの配置転換でもない限り、5年や10年なんてあっと言う間なんだろう。
逆に言うと、一通り慣れてしまえば、あとはただの繰り返しでしかなく、
成長もそこでストップする可能性が十分ある気がする。
この6年、いろんな職を転々としてきたが、どの会社でも濃厚な時間を過ごしたと思う。
というか、一番充実したしんどい時間だけを過ごして、やめて、次に行ってた。
今思うと、それでよかったなあと思う。
短い時間にできる限りの事を学び倒したし、
幅広い知識と経験は、この先どこに行っても役に立つ。
一つの会社で一つの事を極める、というのも一つの生き方だろう。
でも、どうやら自分は、幅広く、様々な事を、様々な角度から、
という生き方が性に合っているらしい。
ちょっと、濃淡で表現する水墨画でたとえてみようか・・・。
伝統的な水墨画の世界も美しいとは思うが、たぶんそれだけだと飽き足らない。
例えば、その次に、別の色で、水墨画を書いてみたいと思う。
(それを水墨画と呼べるかはわからない。まあ、単色画とでも言っておこう。)
黄色の水墨画に、青の水墨画、、、
黄色には黄色の奥深さがあるし、青には青の奥深さがある。
どんな色にも、顔料にも筆にも紙にも、学べば学ぶほど奥行きがあると思う。
で、いろんな技術を一つ一つ学んだら、いつかそれを組み合わせてみたいと思う。
バランスと組み合わせの妙。
うーん♪ マリアージュというかアスペクトというか。
組み合わせたり、でも黒一色に戻ってみたり。
変幻自在なのだけど、一つ一つには、必ず基本が存在してる。
そんな生き方をしてるんだろうな。
とふと思った。
就職して最初の3か月~半年がうんざりするほど長いが、
1年過ぎて、2年目に入ると、さらさら~と時間が過ぎ去っていく。
たぶん、どの会社に就職しても、一番しんどいのは最初の1年くらいで、
そこさえ過ぎれば、よほどの配置転換でもない限り、5年や10年なんてあっと言う間なんだろう。
逆に言うと、一通り慣れてしまえば、あとはただの繰り返しでしかなく、
成長もそこでストップする可能性が十分ある気がする。
この6年、いろんな職を転々としてきたが、どの会社でも濃厚な時間を過ごしたと思う。
というか、一番充実したしんどい時間だけを過ごして、やめて、次に行ってた。
今思うと、それでよかったなあと思う。
短い時間にできる限りの事を学び倒したし、
幅広い知識と経験は、この先どこに行っても役に立つ。
一つの会社で一つの事を極める、というのも一つの生き方だろう。
でも、どうやら自分は、幅広く、様々な事を、様々な角度から、
という生き方が性に合っているらしい。
ちょっと、濃淡で表現する水墨画でたとえてみようか・・・。
伝統的な水墨画の世界も美しいとは思うが、たぶんそれだけだと飽き足らない。
例えば、その次に、別の色で、水墨画を書いてみたいと思う。
(それを水墨画と呼べるかはわからない。まあ、単色画とでも言っておこう。)
黄色の水墨画に、青の水墨画、、、
黄色には黄色の奥深さがあるし、青には青の奥深さがある。
どんな色にも、顔料にも筆にも紙にも、学べば学ぶほど奥行きがあると思う。
で、いろんな技術を一つ一つ学んだら、いつかそれを組み合わせてみたいと思う。
バランスと組み合わせの妙。
うーん♪ マリアージュというかアスペクトというか。
組み合わせたり、でも黒一色に戻ってみたり。
変幻自在なのだけど、一つ一つには、必ず基本が存在してる。
そんな生き方をしてるんだろうな。
とふと思った。
今の世の中、右を見ても、左を見ても、
言葉!ことば!コトバ!
いい加減うんざりだ。(といいつつ、このブログも言葉をつかっているけど)
どこでも、誰でも言うことだけど、
誰かが経験に基づいた何か良いことを教えてくれたとき、
「あ、それ知ってます」っていうのは、やめたい、し、やめてほしい。
もちろん、本当に知ってるのなら、それは構わないのだけど、
「知ってる=ただ、どこかで聞いたことあるだけ」で、
全く現実に応用できていないケースがほとんどだ。
現代の情報の氾濫は誰もが知っていることだが、あまりにもたくさんの情報にさらされて
多くの人は、どうも感覚がマヒしているらしい。
本来、「言葉を使う」ということは、「現象を動かす」ということ。
例えば、スポーツでよい指導者が、基礎的な型を教えたとする。
そこで、学ぶ者が「そんなことは知っています」というのは、やめてほしいのだ。
もちろん、生徒は本や他の先生や、その他いろんな場所で、
同じことを何度か言われて、頭ではよく理解しているのかもしれない。
でも、それを言われるということは、
できていないから言われるのだと、わかってほしい。
それは、できるようにならない限り、ずっと言われ続けるものだ。
おそらく、問題は、最初にそれを言われた時に、
その言葉の意味を体で理解するほどの反復練習や研究をしてないことが一つ。
そして、もう一つは、日々ありとあらゆる場所で、
あまりにもたくさんの情報を与えられすぎていて、
次から次から入ってくる言葉を消化しないまま、
次の言葉を与えられる、というのが現代の生活なのだと思う。
つまり、言葉によってあたえられたものを何も会得せずに、
頭と自我意識だけ肥え太っている状態ともいえる。
はっきり言いたいのは、知識は使うものであり、使わない知識はゴミと同じであり、
使えない知識をいくら増やしたところで、何の意味もないということだ。
知識を深め、知恵をつけるのは、「経験」による。
失敗も成功も、経験して、どんどん知識を使っていけばいい。
たぶん本当は、情報や言葉自体は「少ない」方が、より深く心に響くのだと思う。
この世の中にあふれる言葉のシャワーは本当になんとかならないものか・・・。
言葉!ことば!コトバ!
いい加減うんざりだ。(といいつつ、このブログも言葉をつかっているけど)
どこでも、誰でも言うことだけど、
誰かが経験に基づいた何か良いことを教えてくれたとき、
「あ、それ知ってます」っていうのは、やめたい、し、やめてほしい。
もちろん、本当に知ってるのなら、それは構わないのだけど、
「知ってる=ただ、どこかで聞いたことあるだけ」で、
全く現実に応用できていないケースがほとんどだ。
現代の情報の氾濫は誰もが知っていることだが、あまりにもたくさんの情報にさらされて
多くの人は、どうも感覚がマヒしているらしい。
本来、「言葉を使う」ということは、「現象を動かす」ということ。
例えば、スポーツでよい指導者が、基礎的な型を教えたとする。
そこで、学ぶ者が「そんなことは知っています」というのは、やめてほしいのだ。
もちろん、生徒は本や他の先生や、その他いろんな場所で、
同じことを何度か言われて、頭ではよく理解しているのかもしれない。
でも、それを言われるということは、
できていないから言われるのだと、わかってほしい。
それは、できるようにならない限り、ずっと言われ続けるものだ。
おそらく、問題は、最初にそれを言われた時に、
その言葉の意味を体で理解するほどの反復練習や研究をしてないことが一つ。
そして、もう一つは、日々ありとあらゆる場所で、
あまりにもたくさんの情報を与えられすぎていて、
次から次から入ってくる言葉を消化しないまま、
次の言葉を与えられる、というのが現代の生活なのだと思う。
つまり、言葉によってあたえられたものを何も会得せずに、
頭と自我意識だけ肥え太っている状態ともいえる。
はっきり言いたいのは、知識は使うものであり、使わない知識はゴミと同じであり、
使えない知識をいくら増やしたところで、何の意味もないということだ。
知識を深め、知恵をつけるのは、「経験」による。
失敗も成功も、経験して、どんどん知識を使っていけばいい。
たぶん本当は、情報や言葉自体は「少ない」方が、より深く心に響くのだと思う。
この世の中にあふれる言葉のシャワーは本当になんとかならないものか・・・。
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プロフィール
HN:
もぐら
性別:
男性
職業:
もぐら
趣味:
昼寝、たまに音楽
自己紹介:
管理人はもぐらです。
もぐらは動物と植物と環境の友情を考えています。
別に環境保護にも、動物愛護にも興味はありませんが、人間中心の発想にも興味はありません。
もぐらの一生は、自分の仕事をまっとうすること。
そして自分の心より宝物を発掘すること。
この世界は完璧でないがゆえに美しいのだ、
そう思って生きています。
管理人はもぐらです。
もぐらは動物と植物と環境の友情を考えています。
別に環境保護にも、動物愛護にも興味はありませんが、人間中心の発想にも興味はありません。
もぐらの一生は、自分の仕事をまっとうすること。
そして自分の心より宝物を発掘すること。
この世界は完璧でないがゆえに美しいのだ、
そう思って生きています。
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